(文・ぼそっと池井多)
1日14時間、寝ている。
ウトウトと浅く眠っている時間と、
目をパッチリと開けながらも布団から起き上がれない時間。
それらを足すと、どういうわけか、いつも14時間になる。
外出すれば眠らないでも済むかと思い、
歯を食いしばって出かけてみるのだけれど、
やはり地下鉄の中、待合室の中、ちょっとでも隙があれば
身体がそれを見過ごさず、眠りに入る。
電車の中で眠ると、必ずといってよいほど乗り過ごす。
反対行きに乗り換えて、また乗り過ごす。
いつまで経っても、目的地に着かない。
「春眠暁を覚えず」とはいうものの、
春にかぎったことでもなく、
年がら年中である。
冬は、日照時間が短いから鬱になるのが自然で
それで眠りこけるのだ、と自ら説明していたが、
何のことはない、やっていることはいつの季節でも同じである。
中学校3年生のときに、クラス文集を作った。
マンガを描くのがうまい人が、
クラス全員の典型的な姿をマンガにして席順通りに描いているのだが、
そこでの私には顔がない。
顔が真っ黒に塗りつぶされているのかと思ったら、
どうやらそうではないらしい。
机の上にうつ伏して眠っているので、
頭の髪の毛だけが描かれているのである。
どうやら、このころから私は睡眠障害であったらしい。
また、このころは、まだふんだんに
頭のてっぺんに髪があったということでもある。
いつも怠け者とののしられ
こういう私は、とかく怠け者とののしられてきた。
しかし、私は内的にはいつも忙しいのである。
布団の中で目を開けて起き上がれないでいる時間などは、まさに内的に忙しい。
「起きなくちゃ。
早く起きて、あれをやらなくちゃ」
と焦りながら、身体を起こすことができない。
肩から背筋、腰にかけては、みしみしと
古くさびついたような疼痛がきしんでいる。
ひきこもりとして、経済的に働いていなくても、
人間として生きているかぎりは、いろいろとやることがある。
買い物も行かなくてはいけないし、
洗濯もしなくてはいけない。
なんといっても、
ときどきはトイレも行かなくてはいけない。
困るのは、睡眠時間が長いと、
これらやるべきことをやる時間が短くなるのである。
起きている間の短い時間で
これらすべてを片づけようとするから、
どうしても過密スケジュールになる。
つまり、うつやひきこもりの人は忙しいのである。
たえず、やることに追われていて、内的に忙しい。
内的に忙しいから、人と会うのも敬遠しがちになる。
人と会うと、いっぱしに社会標準のあいさつもしなければならないし、
ときにはお世辞の一つも言わなくてはならない。
こういうことが、自分の精神活動のキャパシティを超えていてできないと思うから、
はじめからそういうところへ出ていかないのである。
すると、いつのまにか結果的に
社会から「ひきこもり」と呼ばれる存在になっている。
……こんなことを考えていたら、
ああ、また眠くなってきた。
布団が私を呼んでいる。
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最近自分自身歳を重ねてきたためなのか、ふと「何のために生きているのだろうか」と思うときがあります。例えば大学を卒業し社会に出て、就職し家庭を築く、子供に恵まれるそして子育てを頑張る等一番のしあわせの形でしょうか。私自身働いてはいますが、このしあわせの形からは随分かけ離れていると思います。人間生まれてきた以上は「死ぬ日まで生き抜くしかないな」(自殺はやはりいけないと思いますが)単純明快そう結論に至りました。
自分のペースで生き抜くことができればそれで良いのかと思うようになりました。
林健二さま コメントをどうもありがとうございます。
まことにおっしゃるとおりだと思います。
「大学を卒業し社会に出て、就職し家庭を築く、子供に恵まれるそして子育てを頑張る」というのが、いわば「定型」のしあわせということになっていますが、誰にでもあてはまるものでもないでしょう。
世の中の「定型」に惑わされず、人それぞれのしあわせを見つけていくのが大事なのだと思います。そのために、ひきこもりとはれっきとした、一つの選択肢であることでしょう。