(文・ぼそっと池井多 / 写真は1990年ナミビアにて筆者撮影)
前回「ひきこもり放浪記 第5回」では、
日本でひきこもりになっていると恰好わるいので、
海外へ出ていって「そとこもり」になっていた
二十代の私について書かせていただいた。
およそ観光という行為をしなかったので、
私の海外放浪はもっぱら滞留と移動から成り立っていた。
一つの町にたどりつくと、まずそこでひきこもる。
毎日、昼ぐらいまで起きられず、起きるとすでにくたびれていて、
部屋から這い出るようにして、とりあえず飯だけ喰いに出る。
腹が一杯になると、また安宿の自室に戻り、
洗濯その他、よしなしごとをやっているうちに、
早くも一日が終わるのである。
やがてビザが切れたり、現地通貨を使い果たしたりして、
尻から根が生えた町を追い出されるように発つときが来てしまう。
すると、しばらくまた移動の日々がやってくるのである。
移動がもたらす幻想
移動というのは、まことに不思議な行為である。
列車やバスや飛行機、あるいはヒッチハイクした車の座席の上に
人はただ「居る(to be)」だけであるが、
それが何かを「する(to do)」ことにしてもらえるのである。
何日も乗り物に揺られて移動しているあいだ、
私はいつもこんなことを考えていた。
……いま自分は次の目的地に向かっているはずだ。
少しも身体は動かしていない。
本を読むとか、原稿を書くとか、頭脳労働をするわけでもない。
何かを産み出すわけでもなければ、処理することもない。
ただ、「次の目的地に向かっている」。
しかし、それだけで何かをしている気分になっている。
まるで立派な仕事でもしているような気分に。
日本の社会で働いている人々は、こういうボクを
ただの自己陶酔として侮蔑するかもしれない。
だが、ひるがえしてみれば、人間のやることなどすべて、
大なり小なり、この移動と同じではないだろうか。
たとえばここに、会社に通勤して働いている人がいるとする。
「会社で、一つのプロジェクトを任されている」
― では、そのプロジェクトが終わったら、どうするのか。
「次のプロジェクトを任される。そうこうするうちに、そのうち課長に昇進する」
― 課長に昇進したら、何だというのか。
「課長に昇進したら、そのうち功績が認められて、部長に昇進する」
― 部長に昇進したら、何だというのか。
「部長に昇進したら、そのうち業績が買われて、社長に…」
そんなふうに次の目的へ、次の目的へと向かっていくのが、
「働いている人」の人生であるようだ。
そして、それはけっして否定されるものではない。
いっぽう、今のボクの日々はこうだ。
― この長距離バスが終点に着いたら、どうなるのか。
「この地方の中心地、A町に着く」
― A町に着いたら、何だというのか。
「A町から鉄道が出ているから、この国の首都B市へ向かえる」
― 首都B市に着いたら、何だというのか。
「隣の国の大使館でヴィザを取って、国境を越えられる」
― 国境を越えたら、何だというのか。
「そこからまた長距離バスに乗って、次の目的地へ向かうことが…」
なにか同じことのように感じられてしようがない。
そう、お金をもらう以外は。
移動しているだけで、自分の何が変わるわけでもないのだが、
ボクは移動しつづける。
とりあえず次の町へ行くために。……
動く停滞 動かない成長
「アフリカ大陸のどこへ行っていたんですか」
と訊かれると、しかたないので、
「大陸を縦断しました」
などと私は答えてしまう。
しかし内心、どこか居心地がわるい。
「縦断」という言葉は嘘ではないのだが、
そう答えることによって
なにやら自分が大陸縦断という地理的移動を英雄気取りで自慢しているようで
恥ずかしさで心が縮んでいるのである。
じっさい、一つの大陸を縦断したり横断したからといって、
「だから何だ」という話である。
たしかに私の身体は、空間的に地球上の位置を何千キロも移動したが、
だからといって、その分だけ私の中身が品質向上したわけではないのだ。
たとえば、まったく同じ期間、一つの部屋にひきこもって、
ある分厚い本を熟読し、書かれている言葉を己(おの)れの血肉と化した、
あるいは、
あるテーマについて向こう側まで穴が開いてしまうほど徹底的に考えてみた、
などという人と比べるとどうであろうか。
あるいはまた、
インターネットで世界中のありとあらゆるサイトを見て、
いろいろなものに出会い、新しいものを吸収している
という人と比べるとどうであろうか。
もしかしたら空間的には一ミリも動いていないひきこもりの方が、
同じだけの時間を使って、何千キロも空間を移動した私よりも
はるかに人生を建設的に過ごしているかもしれないのである。
少なくとも、
「外に出ているほうが、人生は豊かだ」
「空間的に移動しているほうが、活動的だ」
とは、言い切れないはずだ。
もう三十年以上も、さまざまな形でひきこもっている私は、
二十代は主に外へ向かってこもり、
三十代は主に内へ向かってこもってきた。
五十代のいま振り返ると、
内に向かってこもっていた歳月のほうが
はるかに大きな人間的成長をしたようにも思えるのである。
しかし一方では、外へ向かってこもる時間があったからこそ
内へ向かってこもる時間が稔りをもたらしたのだろう、
という人もいる。
つまるところ、どちらがどのように作用してどうなったのか、
わからない。
わからないけれど、次のことだけは自信を持って言える。
「やたらに外へ出ていけばいいもんじゃない。
あちこち動き回ればいいってもんじゃない」
こうして、のちに私は、
二十代に三つの大陸をあちこち隅々まで動き回った放浪を「移動性ひきこもり」、
三十代の真っ暗な一室にひきこもっていた歳月を「魂の放浪」
と捉え直すことによって
自分がたどってきた軌跡を、
より的確に解するようになっていったのであった。
・・・「ひきこもり放浪記 第7回」へつづく
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こんにちは。
ひきこもり放浪記の連載、とても面白いです。私も同感することが沢山あります。次の記事を楽しみにしています✨
あずささま コメントをどうもありがとうございます。
女性とおぼしき読者の方にも、私のような冴えない男の回想録が共感していただけるということは、たいへん貴重に感じます。
このシリーズ、まだまだ続きます。
どうぞよろしくお願いいたします。
こんにちは。足かけ30年の引きこもり暮らしと伺って、自分と似ているなぁと思いました。
15歳から56歳の今日まで、まさに内に外にこもり暮らしです。
昨今の引きこもり人の増幅だと、引きこもりという言葉自体も消散していくような。
池井多さんにもいつかお会いしたいです。