Photo: 市街を走る路面電車 ミラノ:Pixabay / 東京:フォト蔵 合成:ぼそっと池井多
<対談者プロフィール>
◆ マルコ・クレパルディ (Marco Crepaldi)
イタリア・ミラノに住む若い社会心理学者。イタリアにおけるひきこもりの増加に対応するべく、イタリア版「ひきこもり新聞」ともいうべきウェブサイト「Hikikomori Italia」を立ち上げ、イタリア国内約170のひきこもり家族の連絡会を主宰している。本紙「ひきこもりは何であり、何ではないか」(日本語版)も参照のこと。
◆ ぼそっと池井多 (Vosot Ikeida)
日本・東京に住む中高年のひきこもり当事者。ひきこもり歴は断続的に30年以上。詳しい履歴については本紙「ひきこもり放浪記」を参照のこと。問題当事者の生の声を発信する「ぼそっとプロジェクト(VOSOT)」主宰。
なお、この対談における発言は、あくまでもぼそっと池井多個人のものであり、本紙「ひきこもり新聞」を代表する意見ではない。
「ミラノ東京ひきこもりダイアローグ 第7回」からのつづき……
◆
マルコ・クレパルディ:
私のウェブサイト(Hikikomoti Italia)に書かせていただいたように、私はひきこもりの定義を次のようなものだと考えています。
ひきこもりとは、近代的な個人主義社会に典型的な、
社会における自己実現という過度な圧力に反応して
活性化される人間の対応戦略である。
ひきこもりの定義をシェアできるように協働していきましょうよ。
この定義の案は、叩き台にすぎません。
どう思うか、忌憚(きたん)のないところを教えてください。
ぼそっと池井多:
この案は、ほんとうによく考えつくされています。今のところ私は、良き対案が浮かびません。
しかし、あなたのいうひきこもりの定義を、私自身の人生(当事者手記 参照)にあてはめたらどうなるのかな、と考えてしまいます。
マルコ・クレパルディ:
あなたがひきこもりになっていった半生には、私も深く考えさせられます。
私はまだそこまで、家族や、もっと一般に教育のスタイルといったものが、どのようにひきこもり形成へ影響するのか理解していません。
前にも話したように、私はイタリア国内のいくつかの家族のひきこもりの親御さんたちと連絡を取り合っています。彼らは、ひきこもりとなった息子や娘のために、ほんとに日々格闘しています。彼らは、おおいに自分たちを責めてもいます。彼らは、子どもさんたちへの愛情や理解や忍耐心をいっぱい持っています。
だから私は、彼らの教育のスタイルがまちがっているか、あっているか、を理解することがむずかしいのです。
ぼそっと池井多:
親の教育態度が正しいかどうかを語るのはむずかしいでしょうね。
私が子どものころは、どんなに虐待的な教育スタイルでも、それを「しつけ」だと言いさえすれば、ほぼ正当化されていました。
マルコ・クレパルディ:
あなたがおっしゃったように、ひきこもりは白か黒かではなく、スペクトラム(連続体)です。
それぞれのひきこもり人生の背景には、それぞれの成育歴、それぞれの理由があり、その結果、じつにたくさんの異なったひきこもりのタイプがいることでしょう。
ぼそっと池井多:
「ひきこもりは白か黒ではなく連続体である」
とは、良いことをおっしゃいますね。
ひきこもり界でもっとも非生産的なのは、ひきこもりの定義を作るあまり、
「あいつはひきこもりじゃない」
などと、ひきこもり同士が否定しあうようになることです。
もともと生産的でないと言われているひきこもりが非生産的になるのですから、そのネガティブさはものすごいことになります。
マルコ・クレパルディ:
ひきこもりの多様性を認めると同時に、世界中すべてのひきこもりを結ぶ共通のファクターというものがきっとあるはずだ、と私は考えています。現代社会を突き動かしている力学(ダイナミクス)の中で、それがいったい何であるかを私たちは探らなければなりません。
ぼそっと池井多:
うおおっ、なんか熱くなってきました。
マルコ・クレパルディ:
では、今の社会と以前の社会の、主なちがいは何でしょうか。
たぶん、競争でしょう。達成へのニーズ。
そして、その結果として、圧力。大きなプレッシャー。
「ひきこもり」現象とは、それらの変化への「揺り戻し」「副作用」ではないか、というのが私の仮説です。
ぼそっと池井多:
説得力ありますね。
私が子どものころは、日本は高度経済成長の真っ只中でした。競争は、ある意味ではもっと厳しかったかもしれません。
私自身はあまり有能ではないので、競争するのも好きではありませんでした。しかし私の母は、私の主体を剥奪し、しきりと競争させたがりました。母は、彼女自身の代わりに、私に競争してほしかったのです。
たとえもし、私が社会的にエリートになっていたとしても、私は誰かの選択によって生きる存在ではなく、自分の選択によって生きる人になっていたかったことでしょう。
マルコ・クレパルディ:
ふむ…。
ぼそっと池井多:
「人はなぜひきこもりになるか」という問題を考えるときに、世界中のひきこもりを結ぶ共通のファクターは、社会的力学だけではないと思います。そこには母子関係というものが深く関わってくるでしょう。社会だけでなく、家族の中の力学にも、私たちはもっと光を当てなくてはならないと思うのです。
マルコ・クレパルディ:
そうやってあなたが「家族」と「社会」を対峙させるとき、たとえば田舎の村のように小さな「社会」のことはどのように考えていますか。
ぼそっと池井多:
鋭い質問ですね。
今ここでは、私は小さな村のような地域社会のコミュニティは、「社会」というよりもむしろ、拡大された「家族」の延長のようなものとして捉えていますね。なぜならば、その場合「村」には、家族と同じような一種の閉鎖性があるだろうからです。ドイツ語でいうゲマインシャフト(*1)です。一般に「社会」というと、もっと外へ開かれているイメージが私にはあります。家族との関係はよいのに、地域社会に虐待されてひきこもりになった人もたくさんいます。
*1: ゲマインシャフト(Gemeinschaft)
社会学の用語で、自然に打算抜きで人が集まってできた共同体のこと。
マルコ・クレパルディ:
一方では、家族と社会も切り離して考えることはできませんよね。
ぼそっと池井多:
もちろん、できないでしょう。
家族も、彼らが生きている時代の巨大な社会的力学の真っ只中で暮らしていますからね。
結局、私が言いたいのは、なんでもかんでも社会のせいにするわけにはいかない、ということです。
ひきこもりを生み出す社会について語るのはよいけれど、それを語ることが、ひきこもりを生み出す家族について語ることから逃げるためになってしまってはよくない、ということを申し上げたいのです。
マルコ・クレパルディ:
目的と手段を取り違えるな、ということでしょうか。
ぼそっと池井多:
そう言ってもよいでしょう。同じ社会、同じ時代、同じ町で育っても、ひきこもりになる人とならない人がいるのですから。
一人のひきこもり当事者として持っている印象ですが、ひきこもりにならない人たちの母子関係は概して健康的ですよ。
マルコ・クレパルディ:
あなたは、母子関係がひきこもりの形成に深く関わっている、ということをおっしゃりたいのですね。
ぼそっと池井多:
その通りです。
若かったころ、自分の「母問題」について考えると、私はぞっとしたものでした。
だから私は、なぜ私がこうであるかについて、しきりにもっともらしい理由を、社会とか外側に見つけ出そうとしていました。
しかし、それなりに年をとってきて、私の中で「母問題」にメスを入れることが、あまりタブーではなくなってきたのです。すると、「母問題」こそが、三十年以上もひきこもりをやっている私がなぜこのようであるかを説明する最大の要因であることが、深く自覚されてきました。
マルコ・クレパルディ:
それは面白いですね。
ぼそっと池井多:
「ひきこもりになるのは、母子関係が悪いから」などと短絡的にいうつもりはありません。母子関係の良いひきこもりもたくさんいます。しばしば、それは密着しているくらいに良い。
「母」というものは、子どもにとって世界で最初に出会う他者です。
子どもにとっては、母との関係性が、生涯にわたって数限りない数にのぼる他者とのあいだに結ばれる人間関係の基本形になることでしょう。
ひきこもりというものは、たいていあんまりたくさんの人間関係を持っていません。見かけ上は社交的であるひきこもりもいますが、ほんとうに心深く交流している人間はほとんどいなかったりします。
見かけ上の母子関係が良かろうと悪かろうと、この「多くの人間関係を持たない」という関係性の持ち方が、最初の人間関係である母親との関係性から、なにがしかの経緯をへて形成されているのではないか、と私は考えているのです。
マルコ・クレパルディ:
さて、私たちは8回にわたって対談をしてきました。このへんで、いったんお開きとしましょうか。
ぼそっと池井多:
そうですね。ひきこもりに関する話題は尽きないので、ぜひまた続篇をやらせていただければと思います。
じつに楽しい議論の数々、お相手していただき、どうもありがとうございました。
マルコ・クレパルディ:
こちらこそどうもありがとうございました。
・・・「ミラノ東京 第9回 対談を終えて」へつづく
「ミラノ東京 第8回 英語版」はこちら。
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