ひきこもり新聞の創刊号で、『決して絶望しないでほしい。その経験には必ず意味がある』と、ひきこもる人に私は呼び掛けた。実は、このメッセージには、自分がひきこもっていた時に影響を受けた人物の考えが反映されている。ヴィクトール・エミール・フランクル。アウシュヴィッツ強制収容所を生き抜いた精神科医だ。フランクルの言葉が自分の胸に響いた理由は、殺されることだけを運命づけられた収容所の生活と自分のひきこもり生活が重なったからだろう。ひきこもると死の瀬戸際に近づく。生きている意味が失われ、絶望感に苦しむからだ。しかし、フランクルは強制収容所から生還することができた。人類史上最も恐ろしい環境でも負けない思想を持っていたからだ。これは、ひきこもりで苦しむ人々にも光となるのではないか。創刊号で伝えようとしたことは、フランクルの意味による癒し、ロゴセラピーだった。
「働けば自由になる」
ナチスによって連行されたユダヤ人は、このスローガンが掲げられたゲートをくぐって強制収容所に入った。推定一二〇〇万人。そのうち八〇〇万人が命を落とした。九五%の人は到着後すぐにガス室に送られ、ガス室を免れた人々も過長労働、飢餓、拷問、人体実験で次々と死んでいった。この世の地獄と形容すべき場所で人々の精神は変化した。「無感動」「無感覚」「無関心」状態になったのだ。悲惨で受け入れがたい状況を生き抜くために、感情の揺れを少なくし、自分の心が傷つかないよう、人は防衛したのだ。
声にならない声
この「無感動」「無感覚」「無関心」はひきこもっている人間にも起こっているのではないだろうか。ひきこもりを持つ親御さんの中には、自分の子供は大人しく、何も欲しがらない
と報告する人がいる。家の子はひきこもっているけれども、まるで、いい状態にあるかのような口振りで。しかし、強制収容所内で生じた精神的な変化が、ひきこもりにも起こっていると考えたらどうか。こうした場合は、喜ぶべき状態などではなく、むしろ深刻さを現しいる。
臨床心理学者の河合隼雄さんは著書『生きるとは自分の物語をつくること』で、他人が勝手に物語を作ってしまうことを指摘した。「了解不能のことというのは、人間を不安にするんです。そういう時下手な人ほど、自分が早く了解して安心したいんです」「相手を置き去りにして、了解するんです」と。
何も語らないということは、何も苦痛を感じていない、ということではない。むしろ、言葉にならないほどの苦痛に耐えているのかもしれない。ひきこもる本人が語ることを待たず、周囲の人間が勝手に理解することは、ひきこもりの声を奪うことだ。
意味への意思
声を奪われたひきこもりは何を考えているのか。それは、「自分の人生に意味はあるのか」という実存的な悩みだ。衣食住がそろった環境にいるひきこもりには、もはや生存の不安は無い。しかし、何のために生きているのかという疑問が切実になってくる。毎日、同じような生活が繰り返され、「生きる意味」が感じられないからだ。
ありあまる時間の中で、「自分の人生に意味があるのか」と問うとき、肯定的な意味を見出すことができるひきこもりは少ないだろう。どうして、このような状態になってしまったのか。嘆き、怒り、疲れ果て、虚しさに心が包まれることになる。ひきこもっていた当時、人生の意味を問うと、私は簡単に絶望に突き落とされてしまった。だから、本当はフランクルの言葉のように考えなければならなかった。
「人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に問いを発してきている。だから人間は、ほんとうは、生きる意味を問い求める必要などないのである。
人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなくて、人生からの問いに答えなくてはならない存在なのである」(『医師による魂の癒し』)。
人生に向かって、意味があるのかと聞いても人生から返事はかえってこない。人生に問いを発するのではなく、人生から発せられている問いに私たちは答えなくてはならない。意味は既に人生の側から私たちの足もとに送り届けられていて、私たちは、ただそれを発見するだけなのだ。「どんな時も人生には意味がある。自分を必要とする何かがあり、自分を必要とする誰かが必ずいて、自分に発見され実現されるのを待っている」。フランクルは、どんな時も、人生には意味があるのだから、今は苦しくてもすべてを投げ出してはいけないと言いたいのだ。
人生が自分一人だけのための人生で、自分だけで完結するものであるならば、繰り返し穴を掘って埋めることと同じ意味しか、人生には与えられていないことになる。だから、人生に意味があるということは、自分以外の誰かや何かとのつながりが、人生には用意されているということだ。
(続きは、ひきこもり新聞 2017年9月号に)