ひきこもりは『優雅』な生活か?


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(by photo AC)

(文・編集部 影山)

ひきこもりの問題点のひとつは
「自分で選んでそういう生活をしているのだから問題ないでしょ?」「いいわねぇ~」
という意見の存在だ。

しかし、この意見には前提が存在する。
つまり、「人間はすべての行動を自己決定できる」という前提だ。

本当にそうだろうか?

ひきこもり当事者に話を聴くと
「ある日突然家から出られなくなった」「なんとなくサボってるうちに人と会えなくなった」「いじめられて(あるいは叱られて)頭が真っ白になった」というような話が多い。
自分の希望や意志と関係なく、身体や思考力が働かなくなる。

それによって社会生活が極端に制限された状態が「ひきこもり」といえる。
意志と関係なく活動が制限されてしまうのであるから、「障害」とも認定され得るし
「支援」の対象にもなるのだ。

ひきこもり当事者にとって、その問題は朝起きた瞬間から寝る瞬間まで常にともにある。
ひきこもりがひきこもりでなくなった状態とは、その問題を「乗り越えた」と形容されるが、実際には、「回避する」「真正面から向き合い自分のものにする」「見ないふりをする」のどれか、しかもそのどれもがかなりの努力を必要とする。(年齢が上がれば上がるほど努力のハードルは上がる。しかも、一般の人は全くする必要がない努力である)

もちろん、努力は必ず報われるわけではない。それどころか、ひきこもり当事者の努力が報われる可能性は非常に低いだろう。
日本では「経済的効率性」の名のもとに、報われない努力をする人は蔑まれる風潮がある。
それでも、「ひきこもり新聞」のように、そうした努力がされてきたことに光をあてる動きが広まってきたことは評価していいのではないかと思う。

「優雅だねぇ~」という前に、彼ら彼女らがそのような努力を日々積み重ねていることを想像してみてはいかがだろうか。