(文・ぼそっと池井多)
成人の日。
全国の自治体で成人式が執り行われる中、これまた例年通りに、ヤンキーっぽい新成人が紋付き袴で舞台の上へ乱入し、市長などのスピーチを邪魔したり、式の進行を妨げたりする事件が、ちらほらと聞かれる。
そんな中で、東日本大震災の被災地では、「成人式が荒れる」といった現象がまったく起こらないのだという。
中でも、死者・行方不明者832人、建物の約6割が全壊し、町の中心部がごっそりと津波に持っていかれたしまった宮城県南三陸町では、新成人たちが真摯な面持ちで成人の日を迎えたらしい。
彼らは、中学校2年生のときにあの日を体験した。
代表の青年が、こんな挨拶を述べている。
私達はこの町で多くの喜びや悲しみを経験してきました。 同じ目標に向かい協力し合ったこと、 同じ壁を共に乗り越えてきたこと。 数え切れないほどの経験や思い出が私達を成長させてくれました。 しかし、共に過ごしてきた日々の中にも、 一人一人が置かれた状況は決して同じものではありませんでした。 自分一人で抱えた孤独や不安、 そして何にもぶつけることの出来なかった悔しさ。 ここにいる誰もが、 違った苦しみや葛藤を抱えながらここまで歩んで参りました。 そうして自分自身で乗り越えてきた壁も、 一つ一つが私達の成長へと繋がっているはずです。(*1) (……後略……) *1.「全く荒れない被災地の成人式」 BuzzFeed 2017/01/09 11:41 https://www.buzzfeed.com/daisukefuruta/minami-sanriku-coming-of-age
彼らの真摯さが、ひしひしと伝わってくる。
町がまるごと消失してしまった地の青年たちは、ヤンキーになってグレている暇など、なかった。
大人と一体となって町の再建に夢中になって、ここまでやって来た、といったところだろう。
このような「真剣な青年たち」は、まことに望ましいものであって、私もすなおに応援のまなざしを注ぎたいと思う。
しかし、である。
視線を、そのまま被災地の「内」から「外」へ移したときに、こうした「真剣な青年たち」を引き合いに出して、のっぴきならない言説が吐かれることがある。
私たちのような「ひきこもり」を責めるための対比の対象として、彼らが使われることがあるのだ。
「被災地の青年は、ヤンキーになって成人式の舞台へ乱入している暇なんか、ないのだぞ」
という論法をスライドして、
「被災地の青年は、社会的に生産性のない、ひきこもりになっている暇なんか、ないのだぞ」
などという説教を垂れてくる人が、実際によくいるのである。
私は大きく異論を唱えたい。
もしも、世の中の青年を、成人式の舞台へ乱入するヤンキーの青年たちと、真摯な面持ちで成人式を受ける真剣な青年たちに、乱暴に二分してしまうのなら、むしろ若い「ひきこもり」は後者の「真剣な青年たち」に入るのではないか。
少なくとも、成人式に晴れ姿で参列し、調子に乗って舞台へ乱入するような青年は、ひきこもりになっていないように思うのである。
「活動力のあるひきこもり」
というのは、たしかにいるが、その活動の鉾先は、成人式の舞台へ乱入するようなものとはちがう。
また、たとえ家庭の中で暴れるひきこもりであっても、それは成人式の舞台で暴れるのとはちがう。
これらのちがいを解き明かすことが、今後「ひきこもり」を語る専門家たちにとっても、
重要なカギとなっていくであろう。
成人式で荒れない被災地の見上げた青年たちを見て、なぜか私はこのように、自分たちひきこもりとの共通の波長を感じ取ったのであった。